2006年07月28日

「巨星墜つ 〜遅れた葬礼〜」Part4(2002年3月頃)

当該記事は、2002年3月頃(詳細な月日は現在、不明)にメールマガジン「ゲームいろいろ情報」にて掲載された連載記事「巨星墜つ 〜遅れた葬礼〜」の第四章(最終章)です。

このコラムでは、ゲーム業界における「葬式」が遅れたことが弊害をもたらしているのではないか、という事を考察したコラムとなっております。基本的にゲームと葬式には何ら関連性がありませんが、ここで「葬式」という言葉の意味は、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ポール・サミュエルソンの主張(下記引用文)をご覧頂ければ理解していただけるものと思います。

『…だれのせりふでしたか、科学ってやつは葬式ごとに進歩するものなんです。先人を葬り去りつつ進むわけですね』(P2 「クルーグマン教授の経済入門」 著ポール・クルーグマン 訳山形浩生 メディアワークス 1998)


進歩をするためには、先人を葬りつつ前に進まなければならないのですが、さてゲーム業界ではその「葬式」は行われてきたのでしょうか。その詳細を含めて、続きは本文をご覧下さい。



第四章:「偉大なる中小」


 中小ソフトメーカーには大きな期待が寄せられている。大手ソフトメーカーでは出来ないことをやれる力と可能性を持っているからだ。ひとつは、下請けとして、もうひとつはゲーム業界の未来を拓く者として、である。特に、未来を拓く者としての役割を望む声は一際大きいだろう。

 ゲーム業界が今日抱えている大きな問題の中に、ゲームのネタ不足があることは前にも述べた。似たようなゲームが多く登場し、新作であるはずのゲームでさえユーザーに新鮮味を与えられなくなってきている。

 かつて遊んだことがあるゲームと同じようなゲームソフトを、ユーザーはいつまでも買い続けてくれる保証は無い。飽きが来るのは、時間の問題なのだ。現状が、このまま改善されなければ、いつか訪れるであろう業界消滅の日を待つほか無い。それを避けるために、大手はいま、中小に熱い視線を送っているのだ。

 しかし、中小にとっては思いもかけない重責を背負わされた感がある。確かに、業界のマンネリ感は消し去らなければならないものであるし、ゲーム業界に身を置く一員として、マンネリ感を打破できなかった責任は中小にもある。そのことを承知した上でも、中小にはこの役目は重い。

 なぜなら、葬式は本来大手が為すべき義務だったのだから。大手は、業界をリードしていく立場にあり、当然果たさなければならない義務もある地位にいたはずなのに、それをしなかった。偉大なる先人達を葬り去り、業界全体に進歩の恩恵をもたらすことをしなかったのだ。

 大手は、長年に渡り、先人達を葬り去るどころか逆に第一線で利用してきたのである。そのツケを、いま中小に払わせているのだ。中小にとってはつらい役回りだが、逆に考えると中小が偉大なる先人達を葬り去ることができたのであれば、その名は歴史に残る。初めて葬式をとり行った喪主として。そして、進歩の恩恵をもたらした偉大な中小として。

 巨星を墜とすのには、相当な努力が必要だが、遅れに遅れた葬礼をとり行なえるのは、中小ぐらいしかない。彼ら中小に本当の力があれば、巨星は必ず落ちる。だが、葬り去られる立場にある巨星達は、事態がそうなった時、潔くその場を退くことができるのだろうか。

 長年に渡り、ゲーム業界のトップに君臨してきた彼らは、もしかしたらその座にこだわるかもしれない。しかし、引き際を考えるのも、先人達の義務であり、与えられた特権だ。それを上手に行使することを願わずにはいられない。

 ただし。引き際に先人達はこう言うかもしれない。「葬式なんて縁起でも無いことを言うのはやめてくれ。老兵は“死なず”。ただ消え去るのみ、だ」と。(おわり)



初出:メールマガジン「ゲームいろいろ情報」2002年3月頃(詳細な月日は現在、不明)

blogランキングへ

☆【当該記事への評価をする】

2006年07月27日

「巨星墜つ 〜遅れた葬礼〜」Part3(2002年3月頃)

当該記事は、2002年3月頃(詳細な月日は現在、不明)にメールマガジン「ゲームいろいろ情報」にて掲載された連載記事「巨星墜つ 〜遅れた葬礼〜」の第三章です。

このコラムでは、ゲーム業界における「葬式」が遅れたことが弊害をもたらしているのではないか、という事を考察したコラムとなっております。基本的にゲームと葬式には何ら関連性がありませんが、ここで「葬式」という言葉の意味は、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ポール・サミュエルソンの主張(下記引用文)をご覧頂ければ理解していただけるものと思います。

『…だれのせりふでしたか、科学ってやつは葬式ごとに進歩するものなんです。先人を葬り去りつつ進むわけですね』(P2 「クルーグマン教授の経済入門」 著ポール・クルーグマン 訳山形浩生 メディアワークス 1998)


進歩をするためには、先人を葬りつつ前に進まなければならないのですが、さてゲーム業界ではその「葬式」は行われてきたのでしょうか。その詳細を含めて、続きは本文をご覧下さい。



第三章:「喪主は誰か」


 偉大な先人を葬り去るための葬式をとり行なうためには、喪主が必要だ。喪主とは葬式を行なう際の代表者のことである。では、誰が先人達を葬る代表者、喪主を務めるのか。周囲の状況からは、あるグループに期待が寄せられていると判断できる。そのグループとは、ベンチャーを含む中小ソフトメーカーだ。

 大手ソフトメーカーは、中小のソフトメーカーに喪主としての役割を果たして欲しいと思っている。本当にそう考えているのか、それとも特に意識せずに行動しているのかは分からないが、中小にゲームソフトの開発をほぼ丸投げしている現状は、中小に喪主役を期待している証拠だと受け取れる。

 大手が中小に期待する理由はひとつ。彼らが、偉大なる先人達の業績を霞ませるような素晴らしいゲームソフトを生み出す可能性を持っているからだ。先人達を葬り去るためには、先人達が作り上げてきたゲームを超える斬新なアイディアを持ったゲームソフトを開発しなければならない。

 もし、そのようなソフトを世に送り出したのなら、その者は喪主を立派に務め上げたことになる。だが、大手からそうした喪主が現れる可能性は低い。それは、大手にはいまだ偉大なる先人達が居座っていることに原因がある。彼らは大抵の場合、ソフト開発の責任者として、開発部門に鎮座している。

 その先人達の影響を受けないソフトなどあるのだろうか。間接的にであっても、何らかの影響があると見るのが普通だろう。彼らは何と言っても、開発部門の責任者なのだから。

 このような環境下で、大手から画期的なソフトが生まれるのを期待するのは難しい。どんなに画期的なゲームソフトを生み出したとしても、どこかに彼らの “色”が出る。それでは、本当の意味での画期的なソフトだとは言えない。だからこそ、大手は先人達とのしがらみの無い中小に“希望を込めて”丸投げをするのである。

 斬新なアイディアを求めて、中小に期待をかける大手の動きは、ゲーム開発支援制度を創設するまでに及んでいる。任天堂の「ファンドキュー」は、その代表だが、他にもマイクロソフトなどが開発支援プログラムをスタートさせている。

 これも、大手がどこかの中小に喪主役を求めている一つの結果だと言えるだろう。ベンチャーを含む中小ソフトメーカーに資金を供給して、ゲームの開発支援を行なう背景には、自社から喪主役を生み出せない苦悩と、マンネリ感打破のために葬式を渇望する大手の姿が見え隠れする。業界の未来は、中小に託されたのである。(つづく)



初出:メールマガジン「ゲームいろいろ情報」2002年3月頃(詳細な月日は現在、不明)

blogランキングへ

☆【当該記事への評価をする】

2006年07月26日

「巨星墜つ 〜遅れた葬礼〜」Part2(2002年3月頃)

当該記事は、2002年3月頃(詳細な月日は現在、不明)にメールマガジン「ゲームいろいろ情報」にて掲載された連載記事「巨星墜つ 〜遅れた葬礼〜」の第二章です。

このコラムでは、ゲーム業界における「葬式」が遅れたことが弊害をもたらしているのではないか、という事を考察したコラムとなっております。基本的にゲームと葬式には何ら関連性がありませんが、ここで「葬式」という言葉の意味は、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ポール・サミュエルソンの主張(下記引用文)をご覧頂ければ理解していただけるものと思います。

『…だれのせりふでしたか、科学ってやつは葬式ごとに進歩するものなんです。先人を葬り去りつつ進むわけですね』(P2 「クルーグマン教授の経済入門」 著ポール・クルーグマン 訳山形浩生 メディアワークス 1998)


進歩をするためには、先人を葬りつつ前に進まなければならないのですが、さてゲーム業界ではその「葬式」は行われてきたのでしょうか。その詳細を含めて、続きは本文をご覧下さい。



第二章:「訪れなかった葬式」

 『…だれのせりふでしたか、科学ってやつは葬式ごとに進歩するものなんです。先人を葬り去りつつ進むわけですね』(P2 「クルーグマン教授の経済入門」 著ポール・クルーグマン 訳山形浩生 メディアワークス 1998)。

 1970年ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ポール・サミュエルソンの言葉は意味深長だ。前回“葬式”が必要だと述べたのは、もちろん本当の意味での“葬式”ではない。サミュエルソン的な葬式のことを述べたのである。

 アイディア不足に陥り、新たに生み出されるゲームに新鮮味がない。今日のゲーム業界がマンネリとも表現できる状態にあるのは、これまで一度たりとも葬式が行なわれていなかったことに由来するのではないか。

 サミュエルソンに言わせれば「科学ってやつは葬式ごとに進歩するもの」だが、これは科学だけには当てはまるものではないだろう。その他の分野にも充分言えることだ。なぜなら、偉大な先人が形作ってきた分野をさらに進歩させるためには、常に彼らの業績を否定、あるいは踏襲しつつも大部分を過去のものとして決別を図りながら進んで行かなければならないからだ。

 先人は偉大だが、それに恐れをなして、先人の業績を神聖なものであり、不可侵のものであると考えてしまうと、彼ら以上の業績を残すことはできない。進歩は、先人を様々な形で葬り去っていかねば、止まってしまうのだ。では、ゲーム業界は先人達を進歩の為に葬り去ってきただろうか。

 残念ながらというべきか、喜ぶべきというべきか、ゲーム業界の偉大な先人達はいまだに健在だ。しかも、第一線で活躍している。カプコンの岡本吉起氏は言う。

 『早く交替しないとダメですよね。宮本茂さんや堀井雄二さんのように、10年前から4番を打っていた人が未だに4番打っているような業界ですよね、ゲーム業界って。…Jリーグだってプロ野球だって、みんな世代交替していくじゃないですか。たまにイチローや松井クラスのスターが出たりしてね。この業界もああいう状況になってほしいですね』(P68 「月刊電撃王 1999年5月号」メディアワークス)。

 ゲーム業界の草創期から奮闘していた人が、いまだに現役として、しかも主力として活躍しているのだから、この業界で葬式が行なわれた形跡はない。つまり、葬式ごとに受けられる“進歩の恩恵”に与かれずに、これまできてしまったのだ。何事も進歩がなければ停滞を招く。業界内に漂うマンネリ感の源泉はここにあったのだ。

 ただ、「先人達には抜群の能力があるのだから、ゲームを作り続けることに何の不都合があるのか」という批判は当然あるだろう。しかし、能力を持ちつつも、自ら葬式を行なおうとしている先人はいるのだ。アニメ「千と千尋の神隠し」などの監督を務めた巨匠、スタジオジブリの宮崎駿氏である。彼は『これ以上やっては老害』(2001年6月25日読売新聞夕刊)と語り、自分の存在を葬り去ろうと動きはじめている。

 一時は引退を口にし、今後の長編映画の制作には難色を示している所からそれは読み取れる。能力のある人が長く留まり続ける事で良い面もあるだろうが、思わぬ弊害を生み出してしまう可能性もある。宮崎氏はそれを「老害」だと表現したのだ。「老害」が、進歩の芽を摘み取ってしまう弊害をもたらす前に、葬式を行なってしまわなければならない。

 進歩のためには、葬式は遅れてはいけないものなのだ。 (つづく)


初出:メールマガジン「ゲームいろいろ情報」2002年3月頃(詳細な月日は現在、不明)

blogランキングへ

☆【当該記事への評価をする】

2006年07月25日

「巨星墜つ 〜遅れた葬礼〜」Part1(2002年3月頃)

当該記事は、2002年3月頃(詳細な月日は現在、不明)にメールマガジン「ゲームいろいろ情報」にて掲載された連載記事「巨星墜つ 〜遅れた葬礼〜」の第一章です。

このコラムでは、ゲーム業界における「葬式」が遅れたことが弊害をもたらしているのではないか、という事を考察したコラムとなっております。基本的にゲームと葬式には何ら関連性がありませんが、ここで「葬式」という言葉の意味は、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者ポール・サミュエルソンの主張(下記引用文)をご覧頂ければ理解していただけるものと思います。

『…だれのせりふでしたか、科学ってやつは葬式ごとに進歩するものなんです。先人を葬り去りつつ進むわけですね』(P2 「クルーグマン教授の経済入門」 著ポール・クルーグマン 訳山形浩生 メディアワークス 1998)


進歩をするためには、先人を葬りつつ前に進まなければならないのですが、さてゲーム業界ではその「葬式」は行われてきたのでしょうか。その詳細を含めて、続きは本文をご覧下さい。




第一章:「高まる存在感」

 現在、一部の中小のソフトメーカーの存在感が高まりつつある。中小ソフトメーカーの重要性が増しているのは、ひとえに大手ソフトメーカーのおかげである。それは大手が中小を“下請け”として重宝しだしているからだ。

 中小ソフトメーカーの経営はいつの時代でも厳しいものがある。ゲーム業界で勝ち残り、大手へと成長するためには、自社制作のゲームソフトをヒットさせるのが一番の近道であるが、それは口でいうほど簡単ではない。

 大きなヒットは大手でも生み出すのは難しいのだから、中小であればなおさらだ。では、中小は慢性化している厳しい経営環境からどのように抜け出したらよいのであろうか。いつ出るともわからない大ヒット作を待ち続ける方が得策なのか。あるいは、別の道を選択するべきなのか。いずれにしろ、今日存在感を大きなものにしつつある中小ソフトメーカーは、後者の道を選んだ所に多い。

 別の道というのは、前述した通り、大手の下請けになることである。中小でありながらも、下請けとして生き、ついには株式公開企業になったソフトメーカーに、格闘技ゲームの制作を得意とする「ユークス」がある。ユークスはアメリカのソフトメーカー「THQ」の下請けとして、同社から委託されたゲームソフトの開発を手掛け、ついには公開企業になるまでに成長した。

 かつてはユークスも独自の自社ソフトの開発・販売をしていたが、『自社ソフトの制作は小規模のソフト開発会社にはリスクが大きすぎる』(2002年3月1日日経産業新聞)として、大手からの受託開発に特化するようになったのだ。結果、中小ソフトメーカーという立場に変わりはないものの、安定した業績を確保することに成功したのだ。

 ユークスのように下請けに特化して、不安定な経営環境を打破した中小ソフトメーカーは少なくない。逆にいえば、それだけ大手から中小へ出される注文が多いのである。最近では、大手から寄せられるゲームソフト開発依頼の中に、企画の段階からソフトを開発してほしい、と頼んでくるものが多くなってきているという。

 『新作ではキャラクターや簡単なイメージしか決められておらず、シナリオやゲームシステムなどはほとんど開発会社にお任せ』(同)と語るのは、下請けとして有名なソフトメーカー「トーセ」の坂口氏である。

 開発作業のほとんどの部分を下請けに回してしまうこともあるのだから、それだけ大手にとって下請けとなる中小は欠かせない存在になりつつあるとも言えるが、大手のその行為はあまり誉められたものではない。

 開発の一部を委託するだけならまだしも、殆どすべてをおまかせにしてしまっている企業を“ソフトメーカー”と呼ぶのには抵抗がある。企画の段階からほとんどのゲーム制作を下請けに委託する大手の行動は“開発の丸投げ”に等しい。

 しかし、なぜ大手が丸投げをするようになってしまったのか。仮にもソフトメーカーなのだから、企画ぐらい作れるはずである。それなのに、企画すら委託してしまうのは、ひとえに彼らのアイディアが枯渇しているからだろう。

 『ほとんどのテレビゲームのネタは出尽くし、ネタ不足が続いている』(同)と話すのは、任天堂の山内社長である。舌鋒するどい山内氏には、ゲーム業界の現状はマンネリ感ただよう慢性的なアイディア不足の状態にあると映っているのである。ならば、このマンネリ感を打開するためにはどうするべきなのか。

 解決策はあまた存在しているだろうが、そのひとつとしてここでは「葬式をあげる」ことを提言したい。では、一体“葬式をあげる”とは何なのか。ゲームとはほぼ無縁の、この言葉が持つ意味をこれから明らかにしたい。(つづく)



初出:メールマガジン「ゲームいろいろ情報」2002年3月頃(詳細な月日は現在、不明)

blogランキングへ

☆【当該記事への評価をする】